赤倉山神社(鼻和堂)
◎所在地
〒036-1343 青森県弘前市大字百沢字東岩木山1番地39号
赤倉山宗教法人 瑞穂教赤倉山神社
法人番号 6420005004626
開祖工藤むらは旧大浦村の鼻和出身で、修行者の面倒をよくみてくれていたので、親愛の情を込めて「鼻和のばさま」と呼ばれた。赤倉山神社では開祖である工藤むらを「親神様」「薬乗山龍姫乃命」として神に祀り崇めている。大正5年に工藤むらは自分の子供(二代目神サダ)の病気を治したくて神信仰の道に入った。当時の大浦村の八幡宮へ願掛けを始め、3年3ヶ月の間、毎日水ごりをして日参りの行を重ねた。大正8年に3年3ヶ月の満願成就と共に、工藤むらは、他の人の事がよくわかるようになり、村の人が寄ってくるようになってきた。占ってもらったり、病気のことを祈ってもらったりするためにである。同年10月、夢の中に岩木山から大きな龍神が飛んできて工藤むらの枕元に立ち、「そなたには人間の姿で見せるが、我は赤倉の神なり。我に従い、赤倉の峯へ来るがよい」と、赤倉の神に仕えるようにと告げたという。そんな夢が一週間続いた。7日目に、工藤むらは「私はどうしても子供を残して山へは行けません。里でのことなら、どんな苦しいことでも、神様の仰せのままに従います」と答えた。大正9年、工藤むらは夢のことがだんだん気になり、船沢村宮館の前田源司という行者に頼んで赤倉へ連れて行ってもらった。2度目に赤倉へ行った時、八十八ヶ所(赤倉山の霊所)に、子供の救いを念じて切り落とした自分の黒髪を納めてまわった。サダが小学校三年生の時である。その時「いくら神でも、願いのかなわぬこともある。その代わり、そなたと子供の2代は一生守ってやろう」という神様の言葉が胸に響いてきた。大正10年3月から12月まで月に3度赤倉へ登って行をした。12月に再び「赤倉の山にこもり、1週間無言の行をせよ」という神様のお告げを受けた。大正11年旧暦1月2日、大石神社にこもり、1週間の行に入った。工藤むらが36才の時である。吹雪に明け暮れた4日目に、夢うつつの中に現れた白髪の老人が「これをそなたにあげよう。神の心に従いなさい」といって、三巻の巻物を与えた。目を開くと、赤フランケ(毛布)の上に、本当に巻物があった。しかし、マタギに熊と間違われ無言を破り、また、寒さに耐えかね大森へ宿を借りて残りの日数を大石神社まで日参りの行を重ねた。大森でもそうだったが、行を終わって鼻和の自宅へ帰宅すると、悩み事をもった人々が次から次へと近くの村々からやってくるようになった。大正12年10月に「そなたに、この地を与える。よって、我が天下る社をきざめよ」という神のお告げがあり、信者共に社を建てる準備にかかった。大正12年、赤倉山に三間に四間のお堂を建てた。現祖霊殿前「一心」の柵のある所である。それまでの赤倉は男中心の修験の場で、沢の横にノマ小屋と呼ばれる簡素な小屋しかなかったという。昭和2年に神のお告げで工藤むらの高弟である安田に、板柳町の高増神社を建てさせることにする。高増神社は昭和5年に竣工した。この年の6月1日、工藤むらは人の妬みで弘前警察署に2日間拘留された。病気を治していたので医師法違反の疑いだったという。昭和8年には高増神社の安田と共に再び警察署に7日間拘留される。昭和16年に霊堂を建て直し、新たな宮造りをする。昭和20年頃に岩木山登山道赤倉コースに三十三観音像を信者の協力を得て建立し、道案内の役目も果たした。霊堂の裏にも三十三観音を建立し、体の不自由な人が、その場で三十三観音へお参りができるようにした。工藤むらは自然そのままの山や川、沢を神として大事にしていたので、他にいろいろなものを建てるのは好まなかった。しかし、観音様だけは大事にしたので登山道に建てたという。昭和21年に娘のサダが満州から引き揚げてきて母の手伝いとして赤倉山に登り修行に入る(昭和29年5月に子供の教育の為に山を下りる)。昭和26年には鼻和堂を瑞穂教赤倉神社と称し、奥之院を建立する。瑞穂教(みずほきょう)とは弘前生まれの岩田信一(本家は神社宮司)が神道大教から1948年(昭和23年)に独立して立てた教団(1954年宗教法人)で所在地は青森県弘前市駅前にある。昭和29年に観音様を建て、この時に神言を授かる。
神言
「草分けしむらの社は蓮の花 イロハの道をたどりむらの名は 萬代までも残るなり 草分けしむらの社は蓮の花 黄金花咲く霊山も 観音浄土の蓮の花 頼めよ信者 知恵を授けて 後の世までも 守るなり」
昭和36年に赤倉山の信者の供養堂を建てるために宝泉院に奥の院の土地を譲り渡す。昭和37年に工藤むらが老境に入ったので娘のサダが9月30日に岩手県の保健婦を退職し、昭和38年5月より再び赤倉山へ登り後継者として勤める。この年、奥之院を現在地へ移し、供養堂建設の為のために、宝泉院に対する協力を信者へ要請する。昭和39年8月に工藤むらの石像が建立される。昭和40年2月16日。工藤むら、79才の生涯を閉じる。5月、再び神言が授かる。宝泉院では赤倉山神社を宿舎にして供養堂建築工事にかかる。昭和54年2月16日に「赤倉山神社を開いて60年目になったら大石神社を宿にして赤倉の神が世に出ることができたお礼として、大石神社の前に大鳥居を建てなさい」という親神様(工藤むら)のお告げを受け、昭和55年に大鳥居建立の準備に取りかかったという。当時、赤倉山神社では冬期間でも岩木山環状線道路から神社前までブルドーザーで除雪し、霊堂を無人にすることはなかった。自家発電の設備をし、電話も通じていた。工藤むらは以前より弘法大師を信仰しており、弘法大師が中国から帰国する時に、海上で龍に助けられたというので、弘法大師と龍神を崇め、それぞれ弘法大師殿と赤倉黒竜大権現堂を建てている。不動堂では五大明王を祀り、動物霊などが憑依した人などを特別に祈祷するための場所であったという。工藤むらが神から教えられたことを書き記したものが「赤倉山一代記」である。巻物にしてあるが、昭和38年に一時見えなくなった。ところが昭和40年5月になって、炙り出しの神言と一緒に大祭の日に拝殿の前に供えられていた。赤倉山神社では2回授かったものとして大事にしているという。参詣する人は津軽全域、北海道、東北六県に広がり、大祭時は500人を越える信者が集まってきていたという。一心講という信者の団体組織もあった。大鳥居には当時の竹内知事の名前が見え、子息の竹内代議士もお参りに来ていたという。
◎赤倉詞
鼻和堂の独自の祝詞
原文
掛麻久母畏伎天照皇大神乎、仰伎尊美奉里底、惶美惶美母拝美奉良牟登、天津祝詞乃太祝詞事乎宣留、人波即知天加下乃霊物成里、須久魂鎮米鎮牟留事乎司留可久、心波即知神登上登乃主奈礼婆、心乎痛麻志牟留事有良女、万物一切水止火止爾類比志、正志久直伎元津心波、大御神乃美心止一津登成里、一津登成良牟爾波、我乎離礼底天爾任世、生伎生伎底無伎乎養布人古曾真乃人登申須可伎成里、真波大御神、御心爾隔無久生伎通志底貫久事成里、斯久奈留御祖乃御諭志乎尊美畏美奉良久乎、平介久安介久聞食志底、今母往先母広久厚久、守里幸比給反止乞祈奉良久登白寸。
辞別伎底白左久、四方六十余州爾澄美渡留、朝日乃天照留御光母清々志久、陸奥乃国岩木山爾神鎮麻里座須、顕国魂乃大神、大山祇大神、龍姫大神止大御名乎弥申志底謹請奉留、別伎底波、赤倉乃御山母深久磐戸乃水口与里、一乃石樋、二乃石樋止参登里、三乃御倉乎伏志拝美奉里、緑母深伎立木立深草乎志底、神乃御社登鎮麻里座志座須、赤倉大権現登称奉留龍姫乃神、庚神乃神、山姫乃神止紫雲棚引久五色乃御倉乎遥爾拝美奉留賀故爾、吾賀心乃中乃心乃諸々乃不浄乎祓清米底、六根清浄乃心乎以知底、拝美白寸事乃由乎、神随天乃八重雲乎押披伎底、見曽奈波志座志座世登惶美惶美母白寸。
◎公式HP
◎開祖
●工藤むら
出身地 青森県平川市広船とも旧大浦村の鼻和出身ともいわれる。
明治20年 (1887年) 生。
昭和40年 (1965年) 2月16日78才没。
●二代目 神サダ(むらの娘)
出身地 青森県弘前市大字田町2-5-9
平成元年 (1989年) 没。
●三代目 神勝美
出身地 青森県弘前市大字田町2-5-9
令和四年一月十五日に致死性不整脈により八十三歳で急逝いたしました。葬儀は近親者のみで令和四年一月二十一日に執り行われました。当会も生前は大変にお世話になりました。この場をお借り致しまして謹んで哀悼の意を表します。神勝美様。本当に沢山お世話になりました。誠にありがとうございました。
令和4年1月25日 赤倉霊場崇敬会 会長 鬼隠山海龍
●現神職 神裕典(じん ひろみち)
1972年9月15日生
三代目宮司の末っ子として生まれる。
平成16年3月、出羽三山神社神職養成所を出所。
出所後、父を手伝い赤倉山神社で神職をする。
平成27年5月、行政書士登録。