十腰内堂

◎所在地

〒036-1343 青森県弘前市大字百沢東岩木山1−48

十腰内堂

開祖平間ハルは茨城県出身で、戦中、深浦町追良瀬に疎開、終戦の年に青森県弘前市十腰内にやってきた。その後、昭和25年頃まで赤倉の霊地で修行し、現在地に霊堂を建てた。それまでは赤倉山神社の工藤むらの世話になった。霊堂としては赤倉で四番目に建ったという。平間ハルは昭和23年旧5月に杉の社で21日間、昭和24年には赤倉山で宝の社で21日間、昭和25年には八十八ヶ所の社で33日間と3年続けて赤倉山へ登り、断食修行を続けた。赤倉では尼さんとも呼ばれていた。昭和25年には霊堂を建立。昭和33年7月には弘法大師像(昭和55年3月21日には巖鬼山神社などの協力で再建)など、他にもたくさんのものを建立している。昭和39年の朔山(旧8月1日)の時、平間ハルは御山参詣に信者を連れて登り、鉄砲水に流されたが、信者を救うことが精一杯で、自分の命を落としてしまった。大変天候が悪い日で、山川堂でも登ることを止められたが「神に護られているから大丈夫」と言って、午後に登っていった。銚子の滝で勤行して帰る時に大岩が転げ落ちてきて、沢に投げ出された。信者たちの見ている前でそのまま濁流にまきこまれていった。発見時遺体はバラバラになり、何日もかかって拾い集められたという。田村麿像を建てて10日目とも言われているが、平間は完成した田村麿像を見ていなかったとも言われている。また、別の話では昭和39年旧7月28日に大雨の中、信者30人ほどを連れて赤倉沢上流にある不動の滝へ行き一泊し、翌朝の6時半頃に信者達に下山するように命じて一人岩場を上った。直後に沢の鉄砲水に襲われ、ハルは濁流に流された。数日後遺体で発見されたという。行年52歳。日頃から、「自分は48歳か52歳で死ぬ」と予言していた。信者たちは平間の死を「神が連れて行った」と考え、昭和41年旧7月29日に霊堂の裏に質素な身なりのままの平間ハルの像を建てた。平間の死後は二番弟子だった柳原スエが跡を継いだ。柳原スエは木造に大きな拝殿があるので、赤倉の霊堂には時々登って来るだけだったという。

◎開祖

●平間ハル
出身地 茨城県北相馬郡
大正2年 (1913年) 生まれ。
昭和39年 (1964年)旧暦8月1日52才没。

●二代目 柳原スエ
出身地 青森県西津軽郡木造町大字清水24

◎建立月日

昭和32年9月2日(営林署貸付日)
昭和25年頃建立

◎御祭神

赤倉大権現
岩木大神
猿田彦命
龍神大神

◎御本尊

不動明王
龍頭観世音菩薩
弘法大師

◎例大祭

不明

◎里の拝殿

柳原スエ
〒038-3285 青森県つがる市木造大湯町清水24