鬼神赤倉山大権現を考える時、今に伝わる伝説や物語の多くには鬼神を白髪の老人や、金棒と卍の旗を持った大人(おおひと)として描き、「男神」として鬼神を敬ってきた。
赤倉の麓にある鬼神社の伝説でも、弥十郎と大人の交流が描かれており、もちろん男神として描かれている。
しかし、古い伝説や歴史、お寺に伝わる縁起を調べていくと、この鬼神はもともと「女神」であったことがわかってくる。
赤倉山宝泉院赤倉山大権現略縁起図誌には坂上田村麻呂や、弥十郎と交流を交わした鬼神は鬼女として登場している。また、宝泉院の縁起では、鬼女が田村麻呂に対し、「われは出雲大神の第五王女で、父神の命で護国利民のために大八州の鬼門の地のここに久しく住んでいる。しかし今の世の人は心乱れているので、わが眷属がこれを憎んで争乱を起こしたのだ」と述べる話も伝わっている。赤倉の神が出雲の王女だったという話は宝泉院だけに伝わっているもので他にはない縁起である。こちらの話は略縁起に記されている話と逆説的で、宝泉院には鬼女が田村麻呂を助ける話と、討伐される対象としての話がどちらも伝わっている。また、宝泉院の寺宝であった(焼失)赤倉大権現の御姿の掛軸は、他の神様とのお姿との類似点が多い、馬頭山金毘羅大権現のお姿や太平山三吉大権現のお姿とそっくりで瓜二つのものが多い。赤倉霊場にある赤倉様の石像の多くもその通りである。恐らくはそういった他の地方の神像の版木や御姿を参考にして赤倉大権現の御姿を形作っていったのだろう。また、鬼神社に参拝を経験された方はピンとくるかもしれないが、鬼神社は鳥居から拝殿までの参道がコの字になるように作られている。実に不思議な作りであるが、かの有名な四谷怪談のお岩さんのお墓は、墓地のお墓が立ち並ぶ中をコの字に進んだ先の一番奥に建っている。これはお岩さんの祟りが降りかからない為、あるいは封印の為に、お墓までの道をコの字にわざとしているとする説がある。鬼神社も、まつろわぬ神を封印、または祟りが降りかかるのを恐れてこの形となったのであろうか。真実は誰にもわからない。

※赤倉大権現の御姿

※太平山三吉大権現の御姿

※馬頭山金毘羅大権現の御姿

岩木山の南側に鎮座する岩木山神社は神仏分離前は「岩木山百沢寺光明院」といって、もともとは寺院であった。こちらの縁起でも鬼は退治されるものとして描かれている。百沢寺では岩木山三所大権現として岩木山を崇敬の対象にした。岩木山は三つの峯から形成されており、百沢寺では南側から見て、
●中央の岩木山を岩木山大権現(本地、阿弥陀如来。垂迹、国常立命。)
※安寿姫を岩木山大権現ともしていた。
●左肩の鳥海山を鳥海山大権現(本地、薬師如来。垂迹、大己貴命。)
●右肩の巖鬼山を巖鬼山大権現(本地、十一面観世音菩薩。垂迹、国安瓊姫命。)
として信仰の対象とした。

※岩木山神社参道

※百沢寺の岩木山三所大権現の御札

岩木山は平城天皇(806~819年)のときに、磐城(いわき)権現という神号をもらい、それまで津軽高岳と呼ばれていたが、山の名も岩木山と言われるようになった(巖鬼山と書いて「いわきやま」と呼ばれていた説もあり)。岩木山は天台密教が入ってから熊野信仰や山形の鳥海山信仰が流入して三所権現が形成されている。ちなみに岩木山登山コース上にある「錫杖清水」の霊泉では「卍字」「錫杖」を名乗る二鬼の鬼の住処であるとされたが、役行者前鬼後鬼の信仰が形を変えたものとも考えられる。
瑞穂教赤倉山神社に伝わる「鎮守赤倉山大権現縁起 俗ニ鬼神尊奠」でも赤倉大権現は鬼女として語られている。
鬼沢の鬼神社も、享保4年(1687年)の「検地水帳」には「権太夫抱えの鬼神社地と白山堂」とあり、宝永元年(1704年)の「社堂境内記」では「鬼子母神社」と記載されている。こちらも鬼女である。鬼神社が「鬼」の字の頭に角を書かないのは有名で、「弥十郎と農民を水難から助けた優しい鬼だから角がない」と言われている。しかし、これは日蓮宗の鬼子母神信仰に多く見られる事例で、角を書かないのは鬼子母神社だったときの名残だと思われる。
また、赤倉はその昔「赤倉白山信仰」という加賀の白山妙理大権現の信仰が赤倉の地で栄華を極めていた時代があり、一大霊場として発展したという。その後、時の権力者によりこの信仰は弾圧され、現在はその痕跡を赤倉山中で垣間見ることは叶わないが、岩木山周辺や津軽一帯の地域には今も白山を祀る神社が多く存在し、白山信仰がこの地に根付いていたことを伺い知ることが出来る。かの世界遺産の白神山地の名称は「白山」から取ったものである話は有名である。
赤倉は正式には岩木山北側の巖鬼山を指し、その麓には古い歴史を持つ巖鬼山神社が鎮座している。巖鬼山神社も神仏分離前は「巖鬼山西方寺観音院」という寺院で、岩木山三所大権現の一柱である「巖鬼山大権現」を祀っていた。その後「岩木山百沢寺光明院」は「巖鬼山西方寺観音院」の別当寺として建立されている。巖鬼山大権現の垂迹は国安瓊姫命であり、龍女である。現在の岩木山神社の御祭神の一柱である「多都比姫神」がそれである。つまり岩木山の信仰側から見れば赤倉(巖鬼山)は龍神信仰の山である。赤倉霊場内でも「赤倉龍神」を祀る霊堂を多く見るが、この赤倉龍神と巖鬼山大権現は同一神である。

※巖鬼山神社鳥居

※拝殿内には「赤倉龍神」の描かれた絵馬が奉納されている。

※末社の龍神社には赤倉龍神の御姿が彫られた石の御神体が祀られている。

※岩木山神社の末社である白雲大龍神では岩木山五柱大神の一柱「多都比姫神」の荒魂を祀っている

種市の永助様は「赤倉龍神」を信仰し、赤倉山中に消えて生き神様となったと言われているが、実はその後、石川県の大聖寺市から家族に手紙が届き、家族と十三年ぶりに再会している。大聖寺は白山寺の末寺の白山五院の一つである。永助様は赤倉龍神が白山様であると知っていたのであろう。
岩木山百沢寺光明院(岩木山神社)は岩木山三所大権現として三柱の神を祀っていたが、縁起には「三峰三所一体分身」とあり、三柱の神は、三柱で一柱の神を現わしているされてきた。そして、その神は「絶対秘神」とした。別当の祭祀者自らが「秘神」と記している。通常の権現思想であれば「逆」である。本地仏を秘仏とし、垂迹とは人の前に出現する為の仏の仮の姿である。
当時、岩木山では十一面観音を岩木山頂上にある奥宮に祀っていた(その後に聖観世音菩薩に変わっている。どちらの本尊も現在は大鰐町の専称院で祀られている)。岩木山では阿弥陀如来(国常立命)を主神としていたにも関わらず、巖鬼山の十一面観音が岩木山の奥宮で祀られていたということは、最重要神は十一面観音の巖鬼山(赤倉)の「国安瓊姫命」であるのは容易に察することが出来る。文化八年(1811年)の「岩木山縁起」には国安瓊姫命について次のような記述がある。
「又中臣祓に云う、速佐須良比咩は即ち国安珠姫なり―其の祭日稜威流の祠と称す。—按ずるに稜威流は伊津流なり、其の義未詳—」
この縁起によると、「中臣祓」に登場する祓戸大神の一柱である「速佐須良比咩」が国安瓊姫命としている。しかし、大祓神はもともと瀬織津姫一神であったとされている。
巖鬼山の秘神は「祓戸大神」と見ることもできるし、失われた赤倉白山信仰の「白山妙理大権現」であると見ることもできる。
岩木山の左肩、鳥海山の麓の松代村(鯵ケ沢町)には「鳥海山景光院永平寺」という寺院がかつてあり、鳥海山の薬師如来を祀っていました。この「永平寺」は福井県の曹洞宗大本山の寺院名と同じである。白山妙理大権現は曹洞宗とは深い関係にあり、何らかの関係を匂わせる。鳥海山には「西法寺森」と呼ばれる一帯があり、その麓は「長平(ながたい)」と呼ばれている。「永平寺」の「永平」も「ながたい」と当てはめることができる。また、「西法寺森」の「西法寺」とは、おそらく「巖鬼山西方寺観音院」のことではなかろうかと考察できるが、それでは何故、鳥海山側に西法寺と名の付く地名を付けたのであろうか。それだけではなく、長平には石神神社という、巨石を祀る神社がある。赤倉の大石神社とそっくりである。その石神神社の更に上が西法寺森である。
私には鳥海山はまるで、赤倉(巖鬼山)と鏡合わせのような気がしてならない。本当の赤倉とは鳥海山にあるのではないかと考えてしまう。
弘前には「巌鬼山叡平寺薬王院」という、「鳥海山景光院永平寺」を前身とする由緒を持つ天台宗の寺院がある。本尊は薬師如来である。山門の石柱には「赤倉山大権現」と刻まれている。岩木山信仰の視点からみれば、巌鬼山との山号が付いているのであれば、十一面観音を祀るのが筋であるが、本尊は薬師如来である。赤倉信仰の要素が強く、赤倉山大権現を祀り、宝泉院の縁起の通りに本地仏の薬師如来を本尊としているのである。
岩木山信仰では鳥海山の祭神は大己貴命であり、「鳥海山景光院永平寺」を前身とするならば、大己貴命を垂迹とするのが自然である。
やはりここでも赤倉(巖鬼山)と鳥海山は鏡合わせのように重なって見える。

※巌鬼山叡平寺薬王院の薬師如来

※岩木山山頂で祀られていた観世音菩薩を現在安置している専称院

津軽には昔から「津軽三観音」という、「津軽三十三観音霊場」の歴史より古い観音巡礼の信仰がある。
●巖鬼山西方寺観音院(巖鬼山神社)
※百沢寺へ本尊が移されたのち、神仏分離後は長勝寺に移された。現在も拝観可能である。
護國山観音院久渡寺
●入内山華福寺(小金山神社境内にある入内観音堂
この三つの寺院はそれぞれ観世音菩薩を本尊としているが、この三体の本尊は全て同じ一本の木から作られている。そして久渡寺と華福寺では観音菩薩の垂迹を白山妙理大権現としている。つまり、巖鬼山西方寺観音院で祀られてきた十一面観音菩薩も「白山妙理大権現」が垂迹なのである。

※現在、長勝寺で祀られている百沢寺にあった岩木山三所大権現と安寿と厨子王丸の御神体。

※護國山観音院久渡寺の本尊が納められていた赤堂(現在は本堂内に安置)

※入内観音堂(入内山華福寺)

また、「小栗山の三女神伝説」によると、三姉妹の神が岩木山の神になることを願っていたが、神楽を見物している間に末の女神が岩木山の神となった。そこで長姉は岩木山の見えない小栗山の神となり、次姉は大坊(猿賀神社)の神になったという話がある。他にも津軽地方の支配を争った二神のうち勝った神は岩木山に、敗れた神は小栗山に隠れたとする伝説などがある。小栗山神社の氏子は、古くより神様に失礼にあたるとして岩木山の御山参詣に参加しないとしている。
ここまで読んでいただいた方には、岩木山は女神の山であることがよくお分かりいただけたことと思う。そして、赤倉龍神は歴史に隠された神であることも理解できたではなかろうか。
一柱の女神を隠す為に様々な形や呼び名で呼ばれてきたのである。
そうなると赤倉の鬼女である「赤倉山大権現」と巖鬼山大権現である「赤倉龍神」は同神であると見ることもできないだろうか?
そして赤倉の鬼女には決して忘れてはいけない神が存在する。赤倉の信者でもその名を知らない人も多いその神の名は「山姫」である。
赤倉の鬼神退治の伝説では多くの場合に坂上田村麻呂が登場するが、花若丸が鬼神を退治した話も伝わっている。鬼の統領である高丸を退治し、その娘が「再び人間にはあだせぬ」と誓ったので、岩木山に住まわせることにした。この娘が「山姫」である。そのときに証文を書かせ赤倉の大将とした。この証文は岩木山神社に納められた石の櫃に入れておいたところ、いつの間にかなくなってしまったと「浪岡名所旧蹟考」に記載されている。天明元年(1781年)の六月中旬に江戸の回向院で、岩木山百沢寺の宝物を、二十七日の間(十四日間)開帳したことがあり、その時に展示した品の中に「田村将軍の具足一領、田村将軍鬼神退治の太刀一振、鬼神自筆の証文」というのが並べられていたと「弘藩明治一統誌」の中に書かれているで、そのころまではそうしたものが百沢寺に所蔵されていたのだろう。
また、「山姫」は津軽藩衰退の原因となった伝説にも登場し、津輕為信への鬼神加護と発展、そして津軽藩の衰退にはこの「山姫」が大きく関係する伝説が多く存在しているのだが、一般には知る人はまずいない。そもそも「山姫」を知る者も多くはない。
上記の事から考えても、赤倉信仰にとっても岩木山信仰にとっても鬼女「山姫」の存在はかつて大きなものだったに違いない。それだけではなく、赤倉山には大きな噴火口があり、その中に赤倉の神様が夫婦で住んでいたといいます。この神様には男の子がなく娘ばかりだそうで、そのため六十年に一度、娘の婿にするために一番おとなしい純真無垢な男の子を、山のまわりの村里から一人だけ選んで山に連れていき跡継ぎにするのだという話があります。明治の少し前に弘前の土手町の町家から九つになる一人息子が選ばれて山に招かれ、大正年間には弘前の裾野の十五になる農家の男の子がお山に連れていかれたという話もあり、赤倉の神様も女神(鬼女)であるという認識は、もともと一般にも多く認知されていたものと考えられる。
瑞穂教赤倉山神社の工藤むらは、鬼女の「山姫」様を崇敬しており、この神社で作られた「赤倉詞」にも「山姫」の名が登場している。神社の御祭神の一柱としても祀られている。
長平の石神神社には、卍字の旗を持った山姫大神の石像が境内に立っているが、尊像として存在する山姫はここだけだろう。私は去年(令和1年)、約20㎝程の山姫の御神体を彫刻した。

※自身が彫刻した「山姫大神」の尊像。

赤倉山中で神となった永助様工藤むら新谷万作山川武作をはじめ、山で神隠しにあい山人となった話も多く残されている赤倉。信仰形態や神様として崇められる対象も今は様々であるが、元来は日本の古の自然崇拝から考えると、やはり神に性別の差などなく、人の形をした神ではなく、岩木山そのものが神として崇敬されてきたと捉えるのが自然である。
今もなお津軽の独立峰として静かに津軽の民をじっと見降ろしている岩木山。時代も令和となり、AIの進歩や5Gの導入、コロナ禍など大きな時代の転換機を迎える今を、私たちを、どんな思いで見下ろしているのだろうか。まさに「神のみぞ知る」ところである。


令和二年九月二十九日 赤倉霊場崇敬会 会長 鬼隠山海龍

参考文献
●「白い国の詩 特集[鬼] 東北の鬼伝説」 平成8年3月1日発行
●「津軽の荒吐神伝承と赤倉信仰」太田文雄 青森県文芸協会出版部 1994年4月23日発行
●「円空と瀬織津姫 上 北辺の神との対話」菊池展明 風琳堂 2008年4月10日発行
●「ふるさとの伝説 青森県の伝説散歩」川合勇太郎 津軽書房 昭和45年8月30日発行
●「カミサマをたずねて 津軽赤倉霊場の永助様」根深 誠 中央公論新社 2018年04月19日発行

取材協力
護國山観音院久渡寺 第三十四世 須藤光昭和尚