田舎館堂跡(赤倉神社)

◎所在地

〒036-1343 青森県弘前市大字百沢東岩木山

赤倉神社

開祖斉藤サヨが65才で喉頭癌で亡くなってから霊堂は親戚の熊谷タヨが後を継いだ。熊谷タヨは西目屋村大秋の貧乏な家に生まれ、親の言うままに貧乏な家の嫁になった。タヨには神様のお告げがよく来ていたというが、40才になって夫が子供を7人残して他界してから本気で信仰のことを考えるようになった。タヨ自身も神経痛で体が思うようにならず、その体で子供を一人前に育てていくには、必死になって神様にすがるほかなかった。それだけを33年間赤倉の神様に願ってきた。赤倉の神様に護られて74才になっても体は丈夫だったが、長い間の神経痛と無理のせいで足だけはあまりよくなかった。タヨは41才から神様のお告げで行をすることになった。先ず、村の産土様に21日間の願かけをした。深夜0時頃、お百度参りをした。その間は生ぐさ物は一切口にしなかった。21日の行を40日間に伸ばし行を続けた。次に入内の石神神社で21日間の行をした。それから「百沢の岩木山神社に3年3ヶ月の行をしなさい」という神様のお告げを受け、そのお告げの通り行を続けた。神様のお告げはいつも胸にピンと響いてきた。みそぎの祝詞も神様が夢の中で教えてくれたという。それを草鞋を作りながら一節を3回繰り返しながら唱え、何日もかかって覚えた。タヨは文盲で電話も一人ではかけれないとはいうものの、御嶽教の免許状を取得し、額に入れて拝殿にかけていた。森田村吉野のイタコである川村ヨツのこともよく知っていた。タヨは、ある雨の日に神様のお告げを受けて岩木山へ登ったことがあった。龍神様に案内されて岩木山を越えて裏側の赤倉へ下ったのである。雨が降りしきる中を昼を過ぎてから西目屋村大秋から岩木山へ向かったタヨは、途中で下山してくるたくさんの人から「無理だから、ここから一緒に帰りなさい」と、ずいぶん止められたが、どうしても戻る気になれず、ひたすら岩木山をを目指して急いだ。岩木山の頂上から赤倉までは3~4時間もかかる。大雨で薄暗い道を神に祈りながら龍神様に導かれたタヨは大した苦しみもなく、ずぶぬれになりながらも元気で赤倉に着くことができたという。龍神様が杖となり、灯となってタヨを導いてくれたのだそうである。神様以外には何も心にないタヨはどこへでも乞われれば祈祷に出向いていく。津軽だけでなく、上北、下北、八戸の方にも行ったという。また、お参りに来る人は、体の悪い人ばかりでなく、頭の悪い人なども泊まり込みで行にやってきていた。100人や150人の団体でお参りに来ることも多くあったという。信者も、東北、北海道、東京の人も多くいた。田舎館出身の田沢吉郎代議士も信者の一人であった。大祭は信者の都合を考えながら夏の都合のよい日曜日にしていた。200人を越える信者が集まって盛大な祭りだったそうである。霊堂は2階建てで自家発電や電話の設備も整っており、当時としては堂々たるものであった。赤倉に電気が引かれたのは、昭和61年からである。入口の側には弘法大師堂もあり、また、鳥居をくぐって右側に慈母観音の石仏が建っていた。現在は霊堂は更地となったが慈母観音の石仏だけが当時と変わらずに来るものを見守っている。

◎開祖

●斉藤サヨ
出身地 青森県南津軽郡田舎館村大字田舎舘字中辻140


●二代目 熊谷タヨ
出身地 青森県中津軽郡西目屋村大秋


●三代目 斉藤ミツヱ(サヨの妻でありタヨの妹)



◎建立月日

昭和30年7月25日(営林署貸付日)
昭和31年建立

◎御祭神

赤倉大神
岩木大神
赤倉大権現(龍神様)

◎御本尊

弘法大師

◎例大祭(現在は行われておりません)

旧5月29日

◎里の拝殿

青森県南津軽郡田舎館村