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長内タヨ堂
◎所在地
〒036-1343 青森県弘前市大字百沢東岩木山
赤倉神社 長内タヨ本堂
開祖長内タヨは明治41年生まれ。長内はとても元気で70才を越えてからでも山の中を若い人と同じように歩き回っていたそうである。鯵ケ沢の芦萢では「カシのババ」と呼ばれていた行者がいたが、先々代から赤倉の信仰をし、長内の土地を借りてお堂を建てていた。その人の子孫は一本杉というところに住んでいた。長内は自分の体を丈夫にしたくて「カシのババ」に連れられて赤倉へお参りするようになった。小さい時から体が弱く、27才の時に手術もしているが、37~8才までは本当に弱かった。赤倉へお参りするようになってから体もだんだん丈夫になり、40才頃からは年に7回程赤倉へ登り、山をかけて修行をしていた。その後は体に悪いところは少しもなくなった。ただただ神の力のありがたさに感謝していた。霊堂は
田舎館堂
と同じ頃に建てたという。村のバサマたちが赤倉へお参りに来た時、泊まるところがないから建てろといって勧め、村の人たちの力で建ったものである。神様の石像も、みんなお参りに来る人たちが建てたもので霊堂にこもっている時の世話もまた信者の人たちがめんどうをみてくれていたという。霊堂を建てる前は工藤むらの
赤倉山神社
で休ませてもらっていた。長内は行といっても特別な行はしない。また、いろいろなことも習ってない。占いもしないという。お参りに来た人の困っていることや、病気、失せ者、家庭のことなどを神前で神様にただ祈るだけである。神様に祈っていると、神様の言葉が心に聞こえてきて「〇〇の病院へ行きなさい」「〇〇しなさい」という言葉で聞こえてくる。その言葉に従って救われていった人は多い。八年も寝たきりの病人が、人に担がれるようにしてお参りに来たことがあったが、次の年、その人は杖もつかないで荷物を背負ってお礼参りにやってきた。長内は病人は病院へ行くこともすすめながらも、ただ一心に神を信じて赤倉様にすがることもすすめる。神を信じていると、どんな人でも救われるのだと話していたという。拝殿には
不動の滝
で神様から拾えと告げられて拾ってきたという斧の形をした石と、三味線のバチの形をした石も祀られている。山神様の石斧と、人々に和をもたらす民謡のための三味線のバチとしていつも拝んでいたという。長内はいつもは石や木をあまり拾わないのだそうだが、これらは神様に言われたものだから拾ったのだという。また、神様の授かりものとして、三猿のような形をした茸も祀って拝んでいた。安産の願をかけた人が
不動の滝
へ行ったら目につき、どうしても安産の印のように思って持ち帰った。神棚にあげておいたら、やはり安産ができたと言って、長内に奉納したものだそうである。長内の大祭には40人程が集まるという。平日は信者はあまり来ないが、それでもいつ何人来て泊まっていってもいいくらいに、あげものは続いていたという。霊堂には「長内タヨ本堂」と書かれてある。弘前には家の中に拝殿を作って拝んでいる。赤倉の霊場をめぐると、長内タヨのような、神々しいほどまで、もの静かで、話を聞いているだけで自分の心が洗われていくような感じを受ける方が何人もいた。神様に選ばれ護られている人柄なのだろうか。それとも神性なのだろうか。
◎開祖
長内タヨ
出身地 青森県弘前市大字堅田字宮川366-2
◎建立月日
昭和32年9月2日(営林署貸付日)
昭和33年頃建立
◎御祭神
赤倉大神
◎御本尊
弘法大師
◎例大祭
旧6月29日
◎里の拝殿
青森県弘前市大字堅田字宮川
(自宅内の祭壇)