本尊赤倉山大権現は、俗に鬼神様または赤倉様と称せられる。
 大同二年丁亥の春、坂上田村麿、勅命を奉じて再び征夷の途につく。總軍三万余騎を打ち従え、甲冑には阿字または普門品を書き下し、日頃信心の千手大悲(京都清水寺の千手大悲是也)一寸八分の尊像を髪中に戴き、一心に神明仏陀の冥助を念じ玉う。
 田村麿岩木の麓に到れば、一人の鬼女猛然と姿を現ず、身の丈五尺余り、両眼鏡の如く輝き、吾れは赤倉の神なり、本地は薬王生身の薩埵にして、假りに大八州の五黄なるこの地に住す、この度び汝が無二の丹衷を憐れみ、正に大功を立てしめん、卍字の旗をかざし、錫杖を戴いて進むべし、と告げ終わりて見えず。
 田村麿、即ち卍字の旗をかざし、錫杖を戴き、鬼神加護の功顕を祈るところ、士気大いに振い賊徒忽ち降伏す。この度の大功吾れ一人の力によるに非ず、実に鬼神加護の賜なりと、都に帰り鬼女が因縁を奏す。帝深く感じ、鬼女が因縁片時もゆるがせずにすべからずと、再び勅使を下し、赤倉の山に一宇の坊舎(寺)を建て、鬼女を祀って赤倉大権現と崇め玉う。
 時に一戒僧、件の坊舎(寺)に住し、専ら坐禅観法せるところ、鬼女再び姿を現じ、本地の印を示し玉う。戒僧為に※鬼神経一巻を誦し、至心に供養し奉る。鬼女大いに喜び、永く寺門を加護し、衆生を濟わんと誓い玉う。
 その後農夫、麓の村を拓くところに、鬼女三度び姿を現ず。農夫初めは驚き、終いにはこれ赤倉の神の来現なることを察し、此處用水に乏しく水を引かんとするに山嶮しく人力の及ぶところに非ず、幸いに慈悲を垂れ玉へと憐れみを乞うに、鬼女顧みて曰ク、待て吾れ力を添えんと。果たして翌朝、岩をくだき、土をうがち、流水涓々として村に到る。農夫ら、歓喜勇躍して赤倉の坊舎(寺)に詣り「宝の泉」これ実に宝泉一鬼の賜ものなりと、益々権現の威徳を貴び寺を名づけて赤倉山宝泉院と云い、村を名づけて鬼澤という。
 鬼神赤倉山大権現、出現してより茲に一千二百年、その威徳愈々昭著なるものあり。
 為信公また鬼神の加護を蒙り、以て卍字を旗印となすと。
 当院は慶長年間、禅林三十三峰の一に加えられ現在の地に移る。本尊赤倉山大権現(鬼神出現のお姿・木像)は今に伝わり信者は日に増している。

※鬼神経について

 詳しくは金光明経鬼神品と云い、金光明経は、天武の頃、朝命(勅命)をもって購読せられた鎮護国家の経典で、伝教、弘法両大師の深く帰依尊重した尊いお経であります。
 先づこの経の初めに、この経は諸経の王なりと示されております。そして、この経を持するあれば、大力の鬼神及びその眷属、晝夜その人を擁護して離れず、軍人に入れば常によく他に勝ち、悪事悉く寂滅し、名聞流布して心常に歓喜し、命色の力を増し、変異災怪悉く滅して憂悴することなく、愛楽日に増し、財宝をゆたかにし、乏小することなく、国土の境即ち増益することを得、と鬼神加護の大威神力を説いているのであります。
 鬼神赤倉山大権現は、実にこの因縁をもって出現し、鬼神加護の大威力を誓って卍字の旗を立て玉うたのであります。(当山寺伝赤倉山大権現縁起誌による)