種市堂と鼻和堂は昔から派閥があった。このお互いの信者はある意味ではかなり敵対的であった。
なぜそうなったのかは謎であるが私が聞いた半世紀に渡る種市堂のある信者の話ではその昔、鼻和堂が建ったその土地は元々種市堂が有する土地であり、そこにお堂の建立の計画もあったのだが、どういう経過はわからないが工藤むらがそこに先にお堂を建ててしまい、半ば奪う形で土地を追われたのが争いの始まりだったと言う。
再度申し上げるがこの話の真偽は定かではない。
どちらにしろ二つの信者の溝は深いものであった。工藤むらは登山道の整備やその道中に配置されている西国三十三観音像の設置、登山道頂上の「赤倉御殿」の建立に他のお堂の開祖達と共に追力したが種市堂には声がかからなかったという。
そのかわり頂上には種市堂の信者が建てた「赤倉大権現」と御神号が彫られた大きな岩が建立されている。