赤倉山神社(種市堂)

◎所在地

〒036-1343 青森県弘前市大字百沢東岩木山

赤倉山神社奥之院

赤倉山神。種市大神。赤倉大権現。永助様。太田さん。

様々な呼び名で親しまれている一方、戒律が厳しく参拝ですら敷居が高いところとして他の霊堂とは一線を画す赤倉の大神である。種市堂では永助様を赤倉山な存在として崇拝している。


●一般的な縁起

新和村種市の対馬佐治兵衛という人の兄である太田永助(1851年の嘉永4年10月生まれ)は変人と言われた変わり者で、山人になったと言われている。

17~8才の頃からぼんやりとした性格になり、寒中でも外で白衣1枚で座って目をつむり、人が近寄っても他を向いて物も言わないという風貌で、いつ誰が言うとなく神様と呼ばれるようにった。

病気なおし等を行い、永助から護符をもらいにくる人が多く尋ねるようになった。

しかし、心が進まぬ時は、いくら乞われても護符を与えてくれず、尚、激しく乞われる時は目をつむったまま、座っているところを探って触れたものを手当たり次第に護符としてくれてやったという。

多くの場合の護符は節のある1~2寸のわら片であるが、そういう時は神様の機嫌が悪いから病人の看護に気をつけよと、永助の父が護符を乞う人々に注意していたが、そういった病人は助かることはなかったという。

永助は明治7年より赤倉に入り行をしたという。寒中で白衣1枚で一人で外出し30日間も帰らないこともあった永助が32才の頃(明治15年)に「今日は遊びに行くぞ」というので、父が握り飯を2つ持たせてやったが、それっきり一ヶ月経っても二ヶ月経っても帰らなかった。

父も心配して村人に頼んで永助を探した。

ある村の人が「鬼の姿をした永助が、黄金色に実った稲田の上を赤倉の方へ飛んで行った」というので、探しに行くと赤倉山中に着物が、たったいま脱いだように捨てられてあったので、父は「帰宅する腹がないのだろう」と言って、そのまま引き返したという。この着物があった場所に現在の霊堂が建っている。

永助がいなくなった翌年、この家の苗代田の傍の平地の休み場に不思議にも清水が湧くようになったが、地元の人は、これは神様の与えた水だと言って崇め、目を痛む人がこの清水で目を洗うと治るといわれた。

現在はここに金剛仙神社が建っている。

金剛仙神社の現在の拝殿は後に建立されたのものであり、当初は湧水場の傍に小さい祠が立っているだけで鳥居も現在地ではなく湧水場の傍の小道に建っていた。この祠に最古と言われているの永助の御神像が祀られていたが令和二年に倒壊した。

湧水で水垢離、行を行う信者は必ずその祠に手を合わせてから行に打ち込んでいた。隣には宿泊できる小屋もあるが現在は使われていない。

また、現在ある舟水堂はこの永助とゆかりのあるもので、永助の生家には永助を祀る赤倉山神社が建立されている。

このように、永助という人そのものが赤倉の神となったと言われている。

建物そのものでは、赤倉霊場の中で一番古いことになる。

明治15年頃建てた奥之院である(現在は奥之院はなくなっている)。霊堂は山の避難小屋として建てたのが昭和10年頃なので、赤倉では3番目に建ったということである。

明治39年建立の「赤倉山大山永野神社」と彫られた石塔は現存するものとしては赤倉霊場では一番古いものである。里の方の赤倉山神社は大変に立派な拝殿で多くの信者がお参りにくる。

大祭時には鬼沢の鬼神社が演舞を奉納しに来たりと大変な賑わいを見せる。神社の石碑には竹内黎一代議士の奉納したものもある。

令和となった現在でも全国各地から多くの参拝者が訪れる。今でも永助様の奇跡を体験するものは後を絶たない。

しかし、お参りの際には食してきてはならない食べ物(肉や卵、乳製品、ネギ、ニンニク等々)があるので、参拝時には注意してほしい。信仰するものは普段からこれを守り生活している。

◎食事制限

信者は普段から永助様のお力をお借りするために太田家の決まりである食事制限を行い精進している。

※参拝者も通常一週間前、最低でも三日前から精進を行い出向かなければならない。参拝時には確認をされるので必ず守らなければならないし敷地を跨ぎ鳥居をくぐることを許されないので注意してほしい。

下記に食してはならない食材の一覧を記載するので参考にしてほしい。


〇肉食全般
牛、豚、鳥、羊、鯨
〇加工肉
ハム、ソーセージ、ウィンナー、ベーコン、サラミ
〇魚類全般
エビ、イカ、タコ、カニ、ホタテ、シジミ、アサリ、ホッキ、クラゲ
〇卵・魚卵全般
鶏卵、うずら、いくら、すじこ、たらこ、うに、かずのこ、たらきく
〇野菜
ニンニク、長ネギ、玉ねぎ、ニラ、らっきょ、あさつき、行者にんにく
〇練り物
ちくわ、さつま揚げ、かまぼこ、はんぺん
〇乳製品全般
チーズ、バター、マーガリン
〇飲料
アルコール全般、牛乳、カルピス、ヤクルト、缶コーヒー、栄養ドリンク、エナジードリンク、調整豆乳
〇お菓子
パン、ドーナツ、ケーキ、クッキー、饅頭、アイスクリーム、チョコレート、ヨーグルト、プリン
(基本的にバター、ショートニング、ガーリックパウダー、ポークエキスパウダー、チキンエキスパウダー、オニオンパウダー、卵、牛乳を使用しているものは口にできません)
〇だし・調味料
コンソメ、ブイヨン、煮干し、かつお節、ほんだし、そばつゆ、めんつゆ、ケチャップ、ソース、マヨネーズ、レトルトカレー、カレールー、納豆についているタレ
〇麺
ラーメン、カップラーメン

◎派閥

種市堂と鼻和堂は昔から派閥があった。このお互いの信者はある意味ではかなり敵対的であった。
なぜそうなったのかは謎であるが私が聞いた半世紀に渡る種市堂のある信者の話ではその昔、鼻和堂が建ったその土地は元々種市堂が有する土地であり、そこにお堂の建立の計画もあったのだが、どういう経過はわからないが工藤むらがそこに先にお堂を建ててしまい、半ば奪う形で土地を追われたのが争いの始まりだったと言う。
再度申し上げるがこの話の真偽は定かではない。
どちらにしろ二つの信者の溝は深いものであった。工藤むらは登山道の整備やその道中に配置されている西国三十三観音像の設置、登山道頂上の「赤倉御殿」の建立に他のお堂の開祖達と共に追力したが種市堂には声がかからなかったという。
そのかわり頂上には種市堂の信者が建てた「赤倉大権現」と御神号が彫られた大きな岩が建立されている。

◎別當

別當(べっとう)とは当主のことである。
太田家では永助様の言いつけにより、代々長子(長男)が別當を継いでいる。
現在は第六代目当主が亡くなった為、本来であればその長男が引き継ぐのだが六代目には子供がいなかった為に兄弟の次男が別當を継いでいる。しかし表舞台には公には出てこない。
いま事実上太田家を取り纏めているのは六代目の兄妹で次女の「野田トシヱ」さんである。もともと感の鋭い子であり聡明で海外在住の後に帰国し東京にて結婚し生活をしていた。
しかし上記の事があり弘前に住み、種市の本家に通う形で別當代理として訪れる者の相談や御祈祷を行っている。

私が野田さんとお話を交わした際、次の別当はどうなるのか尋ねると甥っ子に継がせる予定であるとのことであったが、甥っ子当人はまだ継ぐ意思が固まっていないので先の話になるかもしれませんと語った。

◎禁忌

◎開祖

太田永助
出身地 青森県弘前市大字種市字熊谷48
嘉永4年 (1851年) 生まれ。

◎第五代目当主 太田松衛

太田家の第五代目別當(当主)であった太田松衛(しょうえい)は存命中、信者から永助様を超える存在としてカリスマ的存在だった。時に厳しく、時に優しく、信者からの尊敬はかなり厚かったという。永助様同様に大病を患った者を何人も救い、毎朝の散歩と称し、赤倉山の山頂まで登って帰ってくるのが日課であったそうで、その驚異的な姿も信者たちの信仰を厚いものにするには充分すぎるものがあった。

◎建立月日

昭和18年9月16日(営林署貸付日)
奥之院 明治15年頃建立
霊堂  昭和10年頃建立

◎御祭神

赤倉山神(太田永助)
天照大神
大山祇神

◎例大祭

旧8月18日~19日

◎里の拝殿

赤倉山神社
〒038-3614 青森県弘前市大字種市熊谷48

金剛仙神社
〒038-3614 青森県弘前市大字種市柳川

◎関連本