赤倉の山姫さま

花若丸が岩木山の鬼神を退治して、ふもとに下ると、百歳ばかりになる老婆が、一人の娘を将軍の陣所に連れてきて、この後は決して人間にあだはいたしませんから、この娘ばかりは助けてくださいと嘆きますので、証文を書かせて赤倉の大将にしました。 花若丸はその陣のあるところに、日本武尊をおまつりになりましたが、そこが諏訪の林といい、老婆がはいったところがうば林といっている所です。花若丸は田村麻呂将軍のことであるとも伝え、その話では夷の酋長高丸を退治した後、その岩屋に行って見ると、高丸の娘がいて、再び人間にあだせぬと誓ったので、もとのようにその岩屋に住ませることにしたとも、またこの話は田村麻呂の父、刈田丸であるともいったりして、まちまちの話に伝えられておりますが、いずれにしてもその娘が山姫とよばれていたことは、どの話も一致しております。 その時の証文は岩木山神社に納められた石のひつに入れておいたところ、いつの間にかなくなってしまったということが「浪岡名所旧蹟考」に見えております。 天明元年(一七八一) 六月中旬に江戸の回向院で、 岩木山ろく百沢寺の宝物を、二七日の間(十四日間)開帳したことがありますが、その時に展示した品の中に「田村将軍の具足一領、田村将軍鬼神退治の太刀一振、鬼神自筆の証文」というのが並べられていたと「弘藩明治一統志」の中に書かれていますので、そのころまでそうしたものが岩木山神社の前身である百沢寺に所蔵されていたのでしょう。嶽の温泉(岩木町)は、昔は今の所より上の方にある湯の沢という湯つぼのところにあったのですが、そのころ、 赤倉山に住む山姫様が、この湯が好きで、毎夜丑満時(午前二時)になると湯にはいりにくるのです。姿は見えず、ただ湯あみの音ばかり聞こえるのだそうです。だれがはいっているのだろうと、湯守りが湯つぼにおりていって見ても、だれもいません。きっとこれはばけ物の仕わざと思い、見つけて殺してしまおうと考えました。そこで笛の上手な人を頼んできて、湯の中で笛を吹かせました。あまりその音色が美しかったので、 山姫さまは丑満時にならない前に、音色につられて山をおりてきました。丑満時にならないと、山姫さまに神通力が出ないことをすっかり忘れていたのです。湯守りはここぞとすばやく弓をとり、矢を放ちました。 山姫様にとっては幸い、矢ははずれて無事でしたが、 山姫さまは大いに怒り口から火を吹いて、たちまち湯小屋を焼き払ってしまいました。そんなことから湯小屋は今のところへ引き下げられ、湯のなかでは笛を吹くことを禁じたといいます。「じょっぱり殿様」とよばれた津軽三代の信義、四代の信政に仕えた添田儀左衛門という武術の達人がありました。この人は学者であり、剣客でもあり、また横笛の名人でもありました。ある年の秋、殿様の許しをもらい、暇をとって老僕をつれて嶽の温泉に湯治に出かけたのです。嶽の湯では真夜中に湯にはいってはいけないと堅く禁じられていました。それはその時間に赤倉の山姫さまが湯にはいっているからでした。そんなことは知らない儀左衛門は、ある夜のこと、夜半にふと目がさめ、寝つかれないままに湯にはいりに出かけようとしました。物音を聞いて老僕が「だんな様、嶽では夜半に湯にはいることをとめられております」とそのわけを話してとめましたが、儀左衛門は笑って「そんなばかげたことがあるものか」と耳をかさず、湯ぶねにおりていったのです。山の湯の広い湯室には湯もやが立ち込め人っ子一人いず、しーんとして、ただトイから落ちる豊かな湯の音ばかりが聞こえるだけです。しかし儀左衛門の向かい側には時々カッポカッポとだれかが湯をかきまわすような音がします。じっと見ても姿は見えません。気のせいかなと儀左衛門が湯にはいろうとしますと、藻のようなものが湯の中にいっぱい広がっていて、はいることができません。おかしいなと思って手ぬぐいを湯にいれてすくいあげて見ますと、黒い髪の毛がいっぱいに引っかかってきました。その時、儀左衛門はさっき老僕が湯にはいるのを止めたことばを思い出したのです。「知らぬこととて無調法いたしました。お許しくだされ」といって頭を下げ、そのまま部屋に帰りました。そして「世に不思議なこともあるものよ」とひとりごとをいいながら、そのまま寝てしまいました。それから二日たちました。その夜は八月十五日のことで、見事な満月が澄み切った青い空に浮かんでいました。儀左衛門は手酌で、月をさかなに酒を飲んでいましたが、ふと笛を吹いてみたくなり、障子をしめて灯を消し、横笛を取り出して吹き始めました。一曲が終わって、儀左衛門が目を開いてみますと、前の障子に大きな女の頭の影が映っています。儀左衛門は居合い抜きの名人でした。笛を置くが早いか、サッと太刀を抜いて障子越しにその影の首に一笑入れました。確かに手ごたえがあったので、儀左衛門はすぐ障子を開いてみました。外は岩木の山にかかる月の光りで真昼のようでしたが、人影は見えませんでした。しかし縁側の沓脱ぎ石におびただしい血のあとが黒々と残っています。儀左衛門はその血のあとをたよりに正体をつきとめようとして山道を行きますと、その方角はどうやら赤倉山に向かっているようなのです。儀左衛門がハッと気がついたことは、山姫は笛の音が好きだということでした。重なる自分の軽率を後悔した儀左衛門は、翌日すぐに宿を引き払い馬で城に帰り、重役から殿様にこのことを報告しました。みんなも驚いて領内の山伏たちを集め、お詫びの行をおこないますと、七日目に神託があって「儀左衛門は別に悪意があってやったのではあるまいから許してやるが、赤倉と津軽家の縁はこれ限りにする。今後は儀左衛門より以上の学者も武術家も津軽には出ないだろう」といったそうです。 (津軽むがして集より)


※添田儀左衛門の先祖は多田源氏満仲の子頼光の弟頼信から出た家で、 八代目の堀田美濃守貞満は新田義貞の家臣でした。十二代添田弥兵衛貞義という人が越後の上杉景虎に仕え信州千曲川合戦に軍功をたて、後会津の蒲生氏に仕えました。蒲生家離散の後、貞義はその子理兵衛貞成とともに津軽に来て三代信義に仕えたのです。貞成の子貞俊の時代から津軽藩の家老職を勤める家柄となり、このころから代々儀左衛門を名のりました。 山姫に軽率を働いた儀左衛門というのは信義に仕えた添田弥兵衛貞義のことのようです。(川合勇太郎)